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略歴

1984年のマイケル・ジャクソン
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州の貧しいアフリカ系家庭に生まれ、幼い頃から兄弟たちとともに音楽の才能を発揮。1970年代に兄弟グループ「ジャクソン5」の天才リードシンガーとして一世を風靡した。

ソロ活動を中心に据えた1980年代、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた三部作『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』で前人未到の成功を手にし、名実ともにポピュラー音楽界の頂点に立つ。

1990年代以降も『デンジャラス』『ヒストリー』といった大ヒット作を生み出し続けたが、一方で私生活や容姿に関するゴシップや数々のスキャンダルがメディアに取り沙汰されるようになり、心労による鎮痛剤や睡眠薬への依存に悩んだ。

2009年、大々的なカムバックとなるはずだったツアー「THIS IS IT」の実施を発表するも、公演開始1ヶ月前の6月25日、急性プロポフォール中毒により死去した。

生涯
生い立ち
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街の家庭に六男として誕生する。

父ジョセフはクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員として家計を支えていた。ジョセフは当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていた。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育った。

マイケルの兄ジャッキー、ティト、ジャーメインはよく父のギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏してみせたという。これを見てなかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることを決意する[13]。

こうして三人は音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していった。

全米のアイドルに
詳細は「ジャクソン5」を参照
1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンがジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったという。

この頃からグループは「ジャクソン5」と名乗るようになった[14]。

1967年には、ニューヨークのアポロ・シアターへの進出を果たす。マイケルはそこでジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだという。

1968年1月、スティールタウン・レコードからシングル「ビッグ・ボーイ」でデビュー。

この頃、ライブの前座でボビー・テイラーに出会う。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべくジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていく。それが功を奏し、同年7月にモータウンとの契約に成功する[15]。

1969年10月、シングル「帰ってほしいの」[注 1]でメジャーデビュー。全米チャートで1位を獲得した。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになる。

1970年2月、シングル2作目の「ABC」がビートルズの「レット・イット・ビー」に代わり1位を獲得。その後、続く「小さな経験」と「アイル・ビー・ゼア」もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げた。

1971年10月、シングル『ガット・トゥ・ビー・ゼア』[注 2]でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル「ベン」は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得した。

しかしこの頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが少しずつ露呈し始める。同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが自身で作詞作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況にメンバーやジョセフは強い不満を示すようになった。しかしモータウンは一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていく。全米2位に輝いた74年の『ダンシング・マシーン』の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなった。

アイドルからアーティストへ

1971年、ジャクソン5時代。(中央)
1975年、エピック・レコードに移籍。移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」として装い新たに再出発することとなった。

ジャクソンズは1976年にアルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』をもって正式にデビューを飾るが、活動初期はモータウン時代同様自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』まではギャンブル&ハフをプロデューサーに迎えて制作された。マイケルはこのことに再び強い不満を抱いており、特に2作目については「オージェイズの古い曲『ラヴ・トレイン』みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と当時の幻滅ぶりを明らかにしている。

初めてメンバーがプロデュースに関わったのは3作目の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、このアルバムはR&Bチャートで3位を獲得するなど、前2作を大きく上回るヒットを記録した。マイケルとランディの作詞作曲によるカットシングル「シェイク・ユア・ボディ」も、全米チャートで7位まで上昇した。

同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も全米チャートトップ10入りを果たすなどヒットを記録し、批評家からも高い評価を受けた。特にマイケル自身のペンによる収録曲「キャン・ユー・フィール・イット」について、アンディ・ケルマンが「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきてようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになった。

1978年、ミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。この映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会う。

同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル「ユー・キャント・ウィン」でエピックからソロデビュー。

1979年6月、移籍後初のソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を発表。家族やレーベルの反対を押し切ってそのままクインシーをプロデューサーとして迎え制作された本作は、70年代のディスコ・ブームやブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けた。また、ソロでは初の自作曲となる先行シングル「今夜はドント・ストップ」をはじめ、「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の合計4シングルが全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げた[16]。

1981年3月、モータウンでの最後のアルバム『フォーエバー・マイケル』を発表。アルバムからは「想い出の一日」がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり全英1位を記録した。

1982年7月、映画『E.T.』に「サムワン・イン・ザ・ダーク」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞した。

世紀のモンスター・アルバム―『スリラー』
1982年12月、移籍後から2作目のソロ・アルバムとなる『スリラー』を発表。先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」がカットされた。

再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも6500万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている[17]。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。

本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残している[注 3][18]。

1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した[19]。

同年10月、シングル「セイ・セイ・セイ」を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなった。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。

1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。

同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』を発表。『スリラー』のヒットも影響して本作は成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムの発売に際して最後のコンサート・ツアー「ヴィクトリー・ツアー」も行われた。

同年末、ツアー終了を機にマイケルはジャクソンズを脱退した。

1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた[注 4]。

1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」がオリジナル曲として披露された[注 5]。

「キング・オブ・ポップ」の完成
1987年8月、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示した。最終的に本作の売上は多く見積もって3000万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米チャート1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げた。

同年9月、ソロ初のワールド・ツアー「バッド・ワールド・ツアー」を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こった。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになる。

1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。

同年5月、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。

同年10月、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」や「リーヴ・ミー・アローン」などの楽曲が披露された。

1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制する。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになる。

1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表される。

1991年11月、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦した。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれた。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得した。マコーレ・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用された。

1992年6月、2度目のワールド・ツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。

同年7月、シングル「ジャム」のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演[19]。

1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率が[20]マイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となった[21]。

同年2月、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かした。

性的虐待訴訟と2度の結婚
1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされる。これにより11月、開催中であった「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされた。裁判ではジョーダンの父イヴァンによる恐喝があったことが明らかとなり、またジョーダンの証言にも多数の矛盾が発覚する。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。

詳細は「マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑」を参照
1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。

1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。先行シングルとしては妹ジャネットとのデュエット「スクリーム」がカットされ、そのショート・フィルムは「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」としてギネス世界記録に認定された。同年8月にシングルカットされた「ユー・アー・ノット・アローン」は、全米チャートで初登場1位を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもやはりギネス世界記録に認定された。環境問題を扱った10月発表のシングル「アース・ソング」は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲となった。

1996年1月、リサと離婚。

同年9月、3度目のワールド・ツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」を開始。

10月、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では表題曲や「イズ・イット・スケアリー」などの新曲が披露された。映画はカンヌ国際映画祭にて上映された。

11月、デビー・ロウと結婚。

1997年5月、ジャクソン5としてロックの殿堂入りを果たす[19]。

同月、リミックス盤『ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア:ヒストリー・イン・ザ・ミックス』を発表。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形で発売された。ほとんどプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス盤としては史上最高となる600万枚の売上を記録した。

1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。

同月、デビー・ロウと離婚。

2001年3月、史上最年少でロックの殿堂入りを果たす。

同年9月、マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズを開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバムの先行シングルである「ユー・ロック・マイ・ワールド」も披露された。

ソニー戦争と2度目の裁判
2001年10月、生前最後のスタジオ盤となる『インヴィンシブル』を発表。本作では、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードの制作により精力が注がれた。全米1位は獲得したものの、最終的な売上枚数は1000万足らずと従来の作品に比べて伸び悩んでしまったことで、1990年代後半に始まったソニー戦争と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになる。

同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行う。新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」も披露され、約300万ドルの収益を集めた。

2002年4月、民主党全国委員会によるパーティーにて、「ヒール・ザ・ワールド」を含む3曲を披露。このコンサートが彼が踊った最後のコンサートとなった。

2003年11月、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」がカットされた。

ラスベガスにてファンとともに(2003年)
同月、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕される。1993年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなる。

詳細は「マイケル・ジャクソン裁判」を参照
2004年11月、ボックスセット『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』を発表。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、92年のブカレスト公演の模様を映したDVD1枚が収録された。

2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡される。

同年7月、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を発売。なお、内容は『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じもの。

2006年5月、訪日。無罪判決後初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞した。

2008年2月、企画盤『スリラー25周年記念盤』を発売。『スリラー』収録曲のリミックスが収められ、エイコン、カニエ・ウェスト、ウィル・アイ・アム、ファーギーなどが参加した。

同年8月、生前最後となるベスト盤『キング・オブ・ポップ』を発売。このアルバムはマイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められた。完全生産限定盤として発売され、全ての国のバージョンにボーナス・トラックとして「スリラー・メガミックス」が収録された。

2009年3月、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売した。

衝撃の死と広がる波紋
2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に至り死去。主治医のコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けている。

詳細は「マイケル・ジャクソンの死」を参照
2009年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年発売されたBlu-rayは日本のオリコンにおいては歴代4位の売上を記録している[22][注 6]。

同年、Googleの検索ワードランキングで1位になった[23]。

2010年6月25日、一周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開[24]。

Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分
2010年12月、死後初のスタジオ盤『MICHAEL』が発売。本作は、『スリラー』制作段階で収録候補となっていたイエロー・マジック・オーケストラの「ビハインド・ザ・マスク」のカバー[25]をはじめ、生前に録音された10の未発表音源が集められた作品として注目を集めた。しかしプロモーションの時点から、一部の収録曲の歌唱に関して「マイケルによるものではないのではないか」という疑惑がプレスや家族からかけられることとなる。ソニーは一貫してその疑惑を否定してきたものの、2018年8月にようやく「『モンスター』『ブレイキング・ニュース』『キープ・ユア・ヘッド・アップ』の3曲が他の歌手によって歌われたものである」と正式に認めたことが報じられた。

2011年1月、ドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン ライフ・オブ・アイコン 想い出をあつめて』[26]が公開。ホイットニー・ヒューストンなど生前の友人やマネージャー、アーティストたちがマイケルとの想い出を語っている。

11月、リミックス盤『イモータル』が発売[27]。シルク・ドゥ・ソレイユによる同名のトリビュート・ツアーのサウンドトラック盤として発売された。

2012年9月、『BAD 25周年記念盤』が発売[28]。2012年版リマスターの施されたオリジナル盤の他、同時期に録音された未発表音源、最新リミックス、及び1988年のロンドン公演の模様を収めたDVD『ライヴ・アット・ウェンブリー』を同梱している[29]。記念盤の発売に合わせて、スパイク・リー監督によるドキュメンタリー映画『BAD25』も公開された[30]。

2014年5月、生前の未発表曲を集めたアルバム第2弾となる『エスケイプ』が発売[31]。ビルボード・ミュージック・アワードでは「スレイヴ・トゥ・ザ・リズム」のホログラム・パフォーマンスが話題を呼んだ[32]。8月、「プレイス・ウィズ・ノーネーム」がシングルカットされ、ショート・フィルムはTwitterで先行公開された[33]。

同年11月、クイーンのコンピレーション盤『クイーン・フォーエバー』にフレディ・マーキュリーとのデュエット曲「生命の証」が収録[34]。

2019年3月3日、記事にて純資産が約5億ドルとなったと報道[35]。

パフォーマンス
歌唱法
4オクターブもの音域を持つといわれるマイケル・ジャクソンは、その独特な歌声で人気を博してきた。

ジャクソン5時代から『オフ・ザ・ウォール』の頃までは声のよく通るソウルフルな歌唱法が見られるが、『スリラー』以後はよりポップやロック色が強まり、年を重ねるごとに深みを増していった。

彼はキャリアを通じて歌唱力を維持するための努力を欠かさなかった[注 7][36]。2001年発表の楽曲「2000ワッツ」ではデジタル処理で声を加工したのではないか(実際は加工されていない[36])と囁かれたほど低い声で歌っていた一方で、同じアルバムに収録された「バタフライズ」では驚くほど柔らかなファルセットを披露するなど、その多彩なボーカルレンジは晩年まで健在であった。

ボイス・パーカッションも得意としており、曲を思いついた時にはまずそれをテープレコーダーに録音していたという。マイケルは1992年のオプラ・ウィンフリー・ショーにて「フー・イズ・イット」をボイスパーカッションのみで披露しているほか、1995年発表の「タブロイド・ジャンキー」では曲の基本ビートとしてボイスパーカッションを導入している。

ダンス
「ビリー・ジーン」のパフォーマンスで必ず披露される「ムーンウォーク」をはじめ、爪先立ち、スピン、足で蹴る動きなど、マイケル・ジャクソンのダンスはフレッド・アステアなどに強い影響を受けており、キャリアを通じて彼を象徴する代名詞となっていった。

「スムーズ・クリミナル」の振付に登場する、体全体を斜め45度に傾くパフォーマンスは「無重力傾斜(アンチ・グラヴィティ・リーン)」と呼ばれ、それを行うのに必要な特殊な靴の開発において特許を取得している[37]。

パントマイマーとしても知られる。「パントマイムの神様」と称されるマルセル・マルソーは「マイケルは生まれながらのパントマイム・アーティストだ」と語っていたという[38]。

ファッション
1986年の『キャプテンEO』以降、マイケルの衣装はマイケル・ブッシュとデニス・トンプキンスが担当している。ブッシュによると、マイケルは衣装が会場の最後尾の観客にも見えるよう考慮したため、衣装の多くはラインストーンで覆われたものにしていたという[39]。ルーズソックスにもラインストーンが散りばめられていたが、ブッシュの高度な縫製技術を持ってしてもマイケルの激しいパフォーマンスには耐えられず、コンサート終盤にはラインストーンが落ちてしまう。そのためブッシュは夜通し修復を行っていたという。

「ゼロ・グラヴィティ」の特許を開発したのもブッシュである。仕掛けが成功したとき、マイケルは感動の涙を流したという[40]。

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